パリス・ダコスタ・ハヤシマ(PDCH)。本稿読者で、どのくらいの方がご存知でしょうか。PDCHは時計好きが集まり立ち上げたメゾンで、その製造はスイス・ヌーシャテル州フルリエで行う独立系腕時計ブランドで本社は福岡です。
このコラムでは、パリス・ダコスタ・ハヤシマ(PDCH)の誕生秘話をはじめスイス時計の歴史を、4本のコラムに分けてご紹介させていただきます。
スイス時計を語る上で象徴的な人物にダニエル・ジャンリシャール(1665-1741)がいます。彼はエタブリサージュ(établissage)という分業方法を時計産業に導入した人物として知られます。それまでの時計師ギルトは1人の親方が雇える職人と徒弟は1人か2人の小規模なものでした。更に、部品製作用の機械類の使用に関しても型押し、裁断、プレス、ばね用製造機械などを禁止するという考えを持っていました。一方でフランスから逃れて来た時計技師の一部は徐々に部分的な分業を進め、高まる時計需要に応じるべきだという考えを持ち始めていました。
やがて分業する動きも広がりジュネーブ市内の時計師は17世紀末頃から部品の製造はジュラ地方に移り住んだ専門職人に任せ、組立や仕上げなどの仕事に集中するようになります。経済的な見地から言えば全ての工程を一人で仕上げるよりも分業することでより効率的に、そして品質の向上も果たせることが分かっていました。ダニエル・ジャンリシャールは時計師でもありましたが、それ以上に金細工職人の天才と称されていました。組立や仕上げの際に金細工を施す仕事に集中し、最終工程の仕上げと組立をジュネーブで行うことで、ジュネーブ製として高く販売することにも成功したのです。
一方、歴史は面白いもので、当時のギルトは分業することでジュネーブ市街に大量に時計や半完成品の時計が溢れ価格が暴落することを恐れていました。そこでジュネーブで組み立てた時計や半完成品時計の持込を制限したのです。ルールを破った業者は罰金を課せるなど管理も徹底します。日本の時計産業では大量生産、大量放出することで価格破壊(クオーツショック)を起こしましたが、スイスは当初から伝統的な価値を維持しながら量産を両立する知恵を持っていたのです。
ムーブメントの歯車類を収める板部品であるエボーシュ、時計の歯車、機構の往復運動の精度を高めるテンプ、文字盤、針、リューズ、バックル。機械式時計のムーブメントを製造するためにはどれも欠かせない大切な部品です。それぞれに専門の職人がいて、専用に製造する工場があり時計を製造する際は、各々購入します。そして部品同士の調整や仕上げ、そして組み立てを行うのがエタブリサージュです。日本語のニュアンスでは水平分業です。時計の設計や部品の手配、仕上げや組立、出荷から小売を手掛けるメーカーはエタブリスールと呼ばれ、まさに時計産業の発達の中核をなしたのです。
ちなみにジャンリシャールが創業したメゾンは長いあいだ休眠状態でしたが、1994年にジラール・ペルゴを運営するソーウインドグループ(イタリア拠点)が彼の業績に敬意を評して復活させています。
エタブリサージュの効果は絶大だったと思います。当時の時計産業をイメージする数値に1790年の時点で、ジュネーブではすでに6万個以上の腕時計を輸出しているという記録が残っています。古い統計を見返すと、当時のフランスとベルギーの1800年時点での人口が300万人〜400万人程度なので、6万個の時計の製造と輸出は驚愕ですよね。