パリス・ダコスタ・ハヤシマ(PDCH)。本稿読者で、どのくらいの方がご存知でしょうか。PDCHは時計好きが集まり立ち上げたメゾンで、その製造はスイス・ヌーシャテル州フルリエで行う独立系腕時計ブランドで本社は福岡です。
このコラムでは、パリス・ダコスタ・ハヤシマ(PDCH)の誕生秘話をはじめスイス時計の歴史を、4本のコラムに分けてご紹介させていただきます。
18世紀後半頃より時計製造は家内工業として地場産業と化していきます。ジュラ地方は現在のスイス・ヌーシャテル州、ジュラ州、ベルン州、ヴォー州にまたがる山岳部で、現在でもスイス時計産業の主要生産地です。
ここまで読んでPDCHがスイス・ヌーシャテル州に拘ったことが理解いただけると思います。土地の力はまさにその土地の歴史そのものなのです。
時計は時間を刻む道具です。我々はその時計を刻む瞬間を豊かに感じ、普段から身につけて、それを世代に継承することを理想に掲げています。時計をつくる人の歴史を重んじ、時計を使った人が世代を超えてその時を刻む。それらを体現するために土地の力を求めたのです。
ジュラ地方は雪深く、夏は放牧や農業を営み、長い冬の期間にきれいな水と器用な手先を活用して精密加工や機械加工、そしてレース編みなどで生計を立てていました。ジュネーブのような都市部と比較しても賃金水準が低く、分業を当初拒んだギルトも存在しなかったためフランスから追われた職人と共に徐々に時計製造の分業を家内労働の中心に置き換えたのです。当時の様子は、製造パートナーのヴォーシェが本社をおくフルリエの隣町、モンティエ(ボヴェBovetの本社がある街)にある時計博物館で見学することができます(現在、ヴォーシェが管理しているので広報に連絡すると開けてくれるでしょう)。 ジュラ地方では多くの農家が部品業者に転身して各々が技と経験とノウハウを蓄積していき各々が専門とする部品供給の役割を担います。そしてヴォーシェのように組立専門の企業が最終的な調整と組立と検査をして完成させる生産工程が確立されたのです。ブレゲ、ブランパン、ピアジェ、ヴァシュロン・コンスタンタン、ジャガー・ルクルト、パテック・フィリップといった有名ブランドが誕生しています。現在でも時計産業の集積地としてスイス全土に26あるカントン(州や準州)の内、ジュラ地方のヌーシャテル、ベルン、ジュネーブ、ジュラ、ヴォー、ゾルトゥルンの6つのカントンだけでスイス時計産業の9割以上の雇用と85%以上の企業が集積しています。